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2008年7月 4日 (金)

反音楽史 さらばベートヴェン

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こんばんは。今日は特別に暑かったですね。梅雨もそろそろ終わりそうですね。昨夜はものすごい雷が鳴っていました。
冒頭の本の表紙の黒塗りにされた顔の人物が誰だかおわかりになりますか?

今夜は本の紹介です。石井宏さんの「反音楽史」です。今日私たちが知っている「音楽史」は歴史のあるがままの音楽史ではなく、18世紀以降ドイツ人が作り上げた「音楽史」であると糾弾していくのが本書の役割です。小学校の音楽教室で壁に掛けられている音楽家は何故バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートヴェン、シューベルト、ブラームス等ドイツ人ばかりなのか?・・・これらを歴史の事実に沿って検証していきます。

この本の出版は2004年2月ですが、その時は図書館でわざわざ購入してもらい、読みました。ですから最近の本ではありません。この本はたくさん紹介したい本がある中でもとびきりの本でしたので最近購入し6月の下旬頃から4回読み直しました。

この本を読むまでもなく、音楽用語はほとんどイタリア語なのにさきほどの作曲家は何故ドイツ人ばかり?とか、イタリアで有名な作曲家は何故オペラの作曲家ばかりなの?・・等々・・子供時代から今に至るまで素朴な疑問がありました。

映画「アマデウス」を見た時、何故ウイーンの宮廷楽長がイタリア人のサリエリなの?と疑問を感じた方も多いと思います。モーツァルト父子が一生懸命ヨーロッパ中の宮廷へ就職活動に奔走したいたころ、ヨーロッパの主要な宮廷の楽長はイタリア人かイタリアで学んだドイツ人だったわけです。

ジョージ・フレデリック・ハンデル
ジョン・クリスチャン・バーク

この二人が誰だかおわかりですが、二人ともドイツ人ですが後にイギリスで活躍した音楽家です。ゲオルク・フリードリイヒ・ヘンデル、ヨハン・クリスチャン・バッハの英語名です。なおヘンデルは1721年2月23日イギリス当局に帰化申請を出して認められております。

またオペラ、交響曲、協奏曲、ソナタなどの歴史的変遷を検証することにより、ドイツ人がいかに音楽史を我田引水したかを徹底的に検証しているのですが、冒頭にイギリス人音楽学者E・J・デントの以下の言葉がこの本の要約になりそうです。

「ドイツ人の器楽的な器楽的な世界は、イタリア・オペラという梯子を昇ることによって初めて到達しえたものである。しかし新興ドイツは一旦その梯子を昇ったあとで、それを蹴り倒し、以後は口を拭ってイタリアの梯子など最初から存在しなかったようなふりをしているのである。」

2008年6月25日 (水)

ヒル商会〜「誰がヴァイオリンを殺したか」より

こんばんは。石井宏さんの「誰がヴァイオリンを殺したか」は、やはりというか当然というか、センセーショナルな題名ばかりが目立って私のような紹介では本当の面白さが全然伝わってきません。

これには理由がありまして、石井宏さんの書き方が本当に必要事項が簡潔に描かれておりまして、紹介しようとすると丸ままの引用になってしまうからです。音楽に詳しくなくても読めてしまう筆力は本当に素晴らしいと思います。

さてヒル商会からヴァイオリンが連想出来る方はそう多くはないと思います。ご存じの方でも音楽よりはヴァイオリン音楽あるいはヴァイオリンそのものがお好きな方ではないでしょうか。ヒル商会は遡ること18世紀ロンドンでヴァイリン製作を生業とし二人の息子が家業を継ぎきました。次男ヘンリー・ロッキー・ヒル(1774−1835)はベッツ(1755−1823)というヴァイリン製作家でなおかつイタリアのヴァイリンの名器に優れた鑑識眼を持っていた職人のもとで修業をします。その3代目ヒルがヴァイオリン製作とイタリアの名器に対する知識と鑑識眼を身につけたあと、その息子W・E・ヒル(1817−1895)は、ヘンリーの血を受け、ヴァイオリン製作より、イタリアの名器の鑑定並びにヴァイオリンの修理で名をはせるようになります。

この4代目W・E・ヒルには、4人の息子がいました。ウイリアム・ヘンリー、アーサー・フレデリック、アルフレッド・エブスワース、ウォルターエドガーたちです。彼らが協力して創設したのが「ヒル商会」です。

ヒル商会はイタリアの名器の鑑定・修理・評価(値付け)を生業とし、ヒルの鑑定書が世界で唯一無二のお墨付きになるほどその業績をあげていきました。ヒル商会は1902年に「アントニオ・ストラディヴァリ・その生涯と作品」を刊行して彼らが接したストラディヴァリを1本残らず鑑定してみせたのでした。

ところでこの鑑定書には持ち主の楽器の構造、材質、持ち主変遷、修理の足跡などこと細かく記されているのですが、こと音質、音量など肝心要のことが評価の対象になっていないのです。

要するにストラディヴァリはその音で価格が決まっているわけではなく工芸品あるいは骨董品としての価値で価格がついている訳です。それではストラディヴァリの音は?ということになります。

これを書いてしまいますとこの本を読む価値が半減しますので、これ以上踏み込みませんが、何億もする価格が実はその音の価値ではないというところが本書の結論です。

神秘のニス(現在の科学技術を持ってしても再現できないといわれている?)についても詳細な言及があります。読んでしまうと夢がこわされるような気になりますが、ストラディヴァリの神話がいかに作られたのかがもつれた糸をほぐすように解き明かされます。

2008年6月 9日 (月)

レオポルドの青春

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こんばんは。先週末に購入した本をご紹介をしたいと思います。私の大好きな石井宏さんですので、読みやすいのは当然のこと、どのようなレオポルド・モーツアルト像を展開をしてくれるのかページを開けるのがとても待ち遠しかったのですが、私の中では石井宏さんは音楽学者あるいは音楽評論家としか存在しておりませんで、読み始めてびっくり仰天。てっきりレオポルドの評伝だと思いこんでいたのが(この本は)レオポルドが主人公の本格的な小説です。

あとがきがあるのですが、これがまた無茶苦茶長い。11ページもあります。その中で彼が今後執筆しようとしている「小説モーツァルト」の本編は第1部(序章)に相当すると宣言しています。ついで神童ヴォルフガングの栄光の時期が第2部、自我の覚醒から父親への反逆と独立が第3部、さらに第4部、5部と構想を発表しています。

感想ですが、才能があっても運の悪い人は世の中にたくさんいます。レオポルドなどその典型ではないかと思いました。16才で父親を亡くし高等中学を1年だけで退学、支援者の神父のはからいでザルツブルグ大学へ入学するも2年でいわれなき理由で退学、貴族の従僕として奉公、結婚後授かった子供は6人だがナンネルとヴォルフガング以外はすべて若年死している。そんな中でまとめあげた「ヴァイオリン教程」の自費出版がレオポルドの明るい未来への道標だった。この本は先に書きましたようにヴォルフガングが生まれるまでのお話です。

話はもどって石井宏さんはすでに小説「チョッちゃん」をものにしているらしい。

最後にページの片隅に書かれていたレオポルドの言葉を引用して紹介を終わります。

最もすぐれた才能に恵まれた人間がしばしば極貧に暮らしていないだろうか

ご存じのように自分の道は勝って切り拓いていかねばなりません

2008年5月26日 (月)

巨匠たちのラストコンサート

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こんばんは。しばらくぶりで本の紹介です。前に「カラヤン帝国興亡史」をものにした中川右介の本です。その名も「巨匠たちのラストコンサート」です。

ここで選ばれている巨匠(マエストロ)は以下の通りです。

■トスカニーニ カラヤン バーンスタイン フルトヴェングラー クライバー(以上指揮者 項目順)

■リパッティ グールド(ピアニスト)

■カラス(歌手)

■ロストロポーヴィチ(チェリスト、指揮者)


以上の8名です。

ラストコンサートとタイトルは付いていますが、いきなりラストコンサートを展開したのでは初めて読む人(特に以上の音楽家をまったく知らない人)には何のことかさっぱりわかりません。そこは編集のプロたる中川右介は簡明に略歴などを紹介、一気にラストコンサートの周辺まで話を導き、核心に触れていきます。

私が最も興味を持って読んだのが最後のロストロポーヴィチの章でした。ここはいきなり中川右介の祖父が日本共産党の創設メンバーであることを披露するところから始まり、自身の出自まで語り始めるのです。これがロストロポーヴィチとどうのような関係があるのか?この冒頭の疑問が伏線となってロストロポーヴィチと旧ソ連の関係を導くのです。

この章ではモスクワ音楽院の新入生バシュメット(ユーリー 有名なヴィオラ奏者)がモスクワ音楽院の廊下で3人の教授に挨拶するくだりがあります。ここの3者3様の行動がとても興味深いものでした。そのまま紹介したのでは面白くありませんのでクイズ形式にします。

1)ええ・・と君は誰だったかな?(バシュメットは自己紹介する)がんばってください。もし興味があるのなら私の授業を見学に来てください。いつでも歓迎ですよ。

2)その人は振り返ってそこにいるのが見知らぬ学生と見て取るとそのまま歩き去った。

3)「こんにちは」(バシュメット)「おお君か!友よ!」といってバシュメットを抱きしめる。


さておわかりですか?3人の教授とはオイストラフ、コーガン、そしてロストロポーヴィチです。雰囲気的に誰だかもうおわかりですね。1)はオイストラフ、2)はコーガンです。

この3者3様は家康、信長、秀吉が思い浮かびました。まったく関係ないですが。

ラストコンサートにまつわるCD。レコード果ては海賊盤にまで話がつっこまれていますので、レパートリー的にも得るところは多いと思います。

グールド、リパッティに関しては残念ながら私には新しい発見はありませんでした。

最後にトスカニーニは私には最も興味のない指揮者ですが、この章を読むと1曲ぐらいは聴いてみようかなと思うぐらい泣かせる話がふんだんに出てきます。



2008年4月19日 (土)

グレン・グールド 神秘の探訪 アルベルト・ゲレーロ その3

こんばんは。カラヤンで横道にそれました。グールドとゲレーロの関係を引き続き話題にしたいと思います。以下の人物の関係がおわかりでしょうか。

マルチン・クラウゼ、アロイス・レッケンドルフ
クラウディオ・アラウ、ウィルヘルム・バックハウス

まずこのブログをお読みを方はアラウとバックハウスが20世紀を代表するピアニストであるこはおわかりだと思います。クラウゼはベルリンのシュテルン音楽院の教授、レッケンドルフはライプチッヒ音楽院の教授です。

クラウゼは8歳でベルリンへ留学してきたアラウにとって師であり保護者でした。アラウは残された映像の中でも、彼の経歴の中での最重要人物と位置づけております。バックハウスもレッケンドルフのことをヴィルトゥオーゾではなかったが際だって感性豊かな音楽家で、自身の人生の中でもっとも優れた人格の持ち主のひとりとして賞賛しております。

翻って、グールドはゲレーロと出会った時からすでに天才ではありましたが、腕を低い位置に構える演奏スタイル、速いパッセージでの明確なアーティキュレーション、レパートリーなどゲレーロに負うところ大でした。私自身は異論はあるのは承知の上で、グールドは上記の大ピアニストと同列に並ぶ
大ピアニストだと思っています。

いくら私には師はいない、ゲレーロに師事したがそれは議論の場にすぎなかったといったところで、ゲレーロの他の弟子の証言で、グールドの言葉は否定されています。遅かれ早かれわかることを何故彼は言ったのでしょうか。変人グールドには一般の常識は通用しない?のでしょうか。そうではないと思います。何かの目的があったと思うのです。

1964年当時、コンサート活動なくしてレコードは絶対売れないと言われていました。にも拘わらずグールドはコンサートをドロップアウトして録音、テレビ、ラジオなどでその音楽活動を限定することにしたのです。グールドとて霞を食って生きていけません。また出来るだけ稼いで作曲に専念したいとも前々から言っておりました。グールドは確かに天才でしたが、この上にさらにある冠をつけたかったに違いありません。それは「孤高」です。いくら天才であってもその天才が話題になる時必ずその天才に影響を与えた人物も当然話題の中に含まれます。

あくまで私の勝手な推論にすぎませんが、孤高の天才ならばうちに引きこもり、録音に専念するのも一つの宣伝文句として成り立ちます。要するにグールドの録音活動は芸術作品の記録とともに商業的に必ず成功させなければならなかった思います。およそレコードを出す限りは人とちがったものを出さなければいけないとグールドが発言しているのは、まさにこのことだと思います。ベートーヴェンの熱情ソナタとかモーツァルトのレコードの演奏およびジャケット解説などの挑発的態度などはグールドのある種の売り込み宣伝と解釈すれば十分納得できます。

ゲレーロに話を戻します。彼は広いレパートリーを誇り、ハープシコード、クラヴィコード、フォルテピアノなどのレパートリーの擁護者でもありました。イギリス・チューダー王朝の音楽にも親しみ、ゲレーロは1949年に「音楽の史的選集」(ハーヴァード大学出版局)をグールドへのクリスマスプレゼントに贈ったのです。この選集にはオーランド・ギボンズの「ソールズベリー侯のパヴァーヌ」などが含まれていたのです。グールドのレパートリーの中で何故、ギボンズ、バード、スゥエーリンクなどが含まれるのが不思議な感じがした人は多いはずです。

最後にゲレーロのグールドに関する証言を掲載してゲレーロに関しては終わりにしたいと思います。バザーナの神秘の探訪にはゲレーロの項目は注目すべき記事はまだまだたくさんあります。興味のある方は是非ごらんになってください。65ページから85ぺージまでゲレーロに関する記述があります。

「グレンは人の助言は決して受け付けません。グレンを教える秘訣は、自分でなんでも見つけさせることだ。あるいはすくなくとも自分で見つけたと思わせることだ。」

この発言は後に自分(ゲレーロ)を無視するであろうグールドの態度を予想していたに違いありません。

蛇足

師を無視したピアニストはグールドだけに限りません。かの有名なエミール・ギレリスもそうでした。彼の場合無視した先生は何とあの「ゲンリッヒ・ネイガウス」です。これを知った時はさすがに驚きました。これは「ネイガウスのピアノ講義」(エレーナ・リヒテル編 音楽の友社)にニーナ・ドルリアク(リヒテル夫人)の証言にあります(191ページ)。ここには

「私はあなたに(ネイガウス)何ら恩義を被ってはいません。私がもっているもののすべてはレインバリド先生に負うものです」

これはネイガウスへの絶縁状の中の一節として紹介されています。

2008年4月18日 (金)

カラヤン帝国興亡史

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こんばんは。グールドの師アルベルト・ゲレーロの紹介を続けなければいけないのですが、少し趣を変えて本日は帝王カラヤンの話をひとつ紹介したいと思います。冒頭の写真はカラヤンが君臨した都市を今から紹介する本の作者が付録でつけたものです。

実はとても恥ずかしい話なのですが、私はカラヤンのCDは1枚しかありません。レコードも2枚組が1セットだけです。嫌いというほど積極的ではありませんが、もともとピアノ曲が好きだったので、管弦楽まで手が回らなかったこともあります。

さてこの本ですが、題名が「カラヤン帝国興亡史」で副題が「史上最高の指揮者の栄光と挫折」となっています。作者は中川友介 幻冬舎です。去年ですか「カラヤンとフルトヴェングラー」を出した人です。

カラヤンは歴史上にも画期的なポストに就きました。

1 ベルリンフィル終身首席指揮者
2 ザルツブルグ音楽祭芸術総監督
3 ウィーン国立歌劇場芸術監督

この3つを何と1956年に達成しているのです。カラヤンは1908年の生まれですからこのとき48歳です。何というカリスマ性でしょうか。

この本は会話らしきものはあるいは台詞などはほとんど出てきません。しかしこの本をカラヤンの履歴書と見ればこれは一大叙事詩の観があります。

私もこの前の「カラヤンとフルトヴェングラー」で知ったのですがベルリンフィルはカラヤン以前には終身の首席指揮者は置いておりません。もちろんベルリンフィル側が要望したものはありません。ザルツブルグ音楽祭の芸術総監督もカラヤンが初めて要求したポストです。

このへんの経緯が詳細に書かれていますので、音楽の要素は一切ありませんが、カラヤンの交渉力は見事なものです。ただカラヤンは我々が思うほど専制君主ではなく、若手の音楽家の為に財団を創設したりしています。

まったく内容を紹介しないのであればおもしろくありませんのでエピソーソをひとつ紹介致します。1976年4月イースター音楽祭の「ロ−エングリン」の公演でテノールのルネ・コロとの衝突があり、初日にコロは出演したものの、2日目は本番数時間前になってコロがキャンセルしたのです。

その原因は、リハーサル中に起きたらしく音楽解釈の違いでした。

カラヤンの言い分 「この作品を本当に理解して指揮できるのは世界に5人しかいない。だから、わたしのいうとおりにしろ」

コロの言い分 「そうかもしれないが、あなたはその5人のひとりではない」

コロの言い分はもうひとつの説がありまして
世界にはこの役を歌えるテノールは5人しかいない。しかし指揮できる指揮者は5千人いる」

要するにカラヤンの凋落の象徴としてこのエピソードがとりあげられたのでした。

このエピソードは当時有名になり、実はイースター音楽祭と同じメンバーでレコーディングが進んでいたのですが、1981年まで暗礁に乗り上げたままでようやくカラヤンとコロの和解、追加録音することで1982年に発売されました。


2008年4月16日 (水)

グレン・グールド 神秘の探訪 その2 アルベルト・ゲレーロ

こんばんは。前回に引き続いてケビン・バザーナの「グレン・グールド 神秘の探訪」です。アルベルト・ゲレーロの経歴について、この本から紹介したいと思います。

■ アルベルト・ゲレーロ 本名 アントニオ・アルベルト・ガルシア・ゲレーロ

■ 1888年生まれ ラセーナ(サンチャゴの北約400km) チリ

■ 幼児より母親よりピアノを習う

■ 1916年 ニューヨークでデビュー、同市でピアニストと声楽の教師となる

■ 1917年サンチアゴでバッハ協会を立ち上げる。また二声、三声のインベンション、イタリア協奏曲、組曲ゴルトベルグ変奏曲演奏

■ 1918年トロント移住 ハンボーグ音楽院で教える。

■ 1922年トロント音楽院に移る

まだまだ続くのですが、ゴールドベルグ変奏曲を1917年頃にピアノ演奏しているのが特に際立ちます。

バザーナのゲレーロの紹介は詳細なのですがやや総花的。私自身もう少し消化してから続きを紹介したいと思います。

ゲレーロのトロント音楽院での生徒は後にピアニストばかりではなく作曲家、古楽研究家など多彩で、その指導方法も生徒に応じて多岐にわたっています。1930年代にシェーンベルク、ウェーベルン、ベルクなどの当時の現代音楽の初演、紹介をカナダでしています。

途中ですが今日はこの辺で。

2008年4月13日 (日)

グレン・グールド 神秘の探訪

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こんにちは。久しぶりの日曜の休みです。朝からマスターズのテレビ観戦、洗車と大いに休日を楽しんでおります。3月中旬に白水社からグレン・グールドの評伝「グレン・グールド 神秘の探訪」が出ました。訳はサダコ・グエン、著者はケヴィン・バザーナです。原題はLife and Artとなっているのですが、その前にWondrous Strangeがついています。ケヴィン・バザーナは自身の博士論文「グレン・グールドの演奏術」をものにしているぐらいですので、グールドに関しては宮沢淳一と双璧の「生き字引」です。私流に訳して「すばらしき変人」もちろん正確な訳ではありませんが、グールドが自身の録音のプレイバック中にwonderfulを連発しているのは有名ですし、strangeはもちろん形容詞ですから変人は私の勝手訳です。

ここに2003年版の「ピアノとピアニスト2003」があるのですが、その中でグレン・グールドの紹介記事があるのですが、その中で以下のような記述があります。

グールドはヨーロッパに渡らなかったし、またカナダでも正当な音楽教育を受けなかった。その前に、すでに独自のスタイルを身につけ、独学でそれを磨きをかけることに専念した。ドイツの哲学者フッサールは「伝統とは起源の忘却だ」と喝破した。グールドは繁文縟礼(はんぶんじょくれい)と化した伝統を大胆に捨て去り、楽譜だけを頼りに「起源」に近づこうとした

注)繁文縟礼 規則が細かすぎ、煩雑な手続きが多く、非常に非能率的な状況を指す

この記述は現役の大学教授でレコード芸術の月評子でもあります。すべてが誤りとはいいませんが、これほどまでにグールドの独学神話に犯されている人が多いという証拠ではないでしょうか。

私事ですが、楽器を何種類か弾きますがそのほとんどが独学です(我流といった方が正しい?)演奏技術とか楽譜の解釈で悩んでいる時、先生、先輩にその問題の解決策を伝授された時など「目からうろこ」なんて当然のことで、それこそ百年かかっても独学では無理だということは何度も経験しました。

まずグールドの最初の先生はおかあさんのフローレンスさんでした。「神秘の探訪」ではフローレンスは1940年の初めにグールドをトロント音楽院に入れました。音楽理論はレオ・スミス(チェリスト兼作曲家1881−1952)にオルガンはフレデリック・シルヴェスター(1901ー1966)に学びます。

10歳になるとフローレンスは新しいピアノ教師が必要だと考えオルガニスト・作曲家・指揮者のアーネスト・マクミラン(1926−1946までトロント音楽院長)に相談してアルベルト・ゲレーロのクラスに1943年秋にはいることになります。

気になるのはゲレーロの経歴ですが、それは次回にいたします。グールドには神話がたくさんありますが、私生活からしてある種の情報管制を敷いておりましたので、その神話を信じるのはある程度やむおえないことです。

今回は「グールドは独学ではなかった」がメインテーマでした。

ここから先はレコード芸術のファンは読まないでください。

2003年版の「ピアノとピアニスト2003」(音楽の友社)は2002年の12月に出版されていると思う。前記の記事を初めて読んだ時とても腹が立ちました。記述者の馬鹿さ加減にです。この時点では、オットー・フリードリックの「グレン・グールドの生涯」(1992年初版)もジョン・マグリヴィーの「グレングールド変奏曲」(1986年初版)もピーター・オストウォルドの「グレン・グールド伝」(2000年初版)(以上いずれも日本語版)が出ています。これらの著書にはグールドが独学であるかどうか字が読めるなら判断できる材料が記述されています。また宮澤淳一さんのレコード芸術への寄稿(2000年5月号)にアルベルト・ゲレーロとの師弟関係が記述されています。記述者の思いこみ(やっつけ仕事かも)にあきれ果てると同時に、出版社の編集者の程度(何の程度かあえて書きません)が最悪であることがわかります。

こんなものを読まされている読者はたまったものではありません。

2008年4月 7日 (月)

バッハ小伝〜フォルケル

こんばんは。先日のフォルケルの続きです。先日紹介したフォルケルのバッハ小伝の第6章「バッハの旋律」で、バッハの無伴奏作品について以下のように書かれています。

バッハが旋律と和声の処理においていかに思慮深く明敏であったか、彼がいかに両者のあらゆる可能性を汲み尽くそうと心がけたか、そのことは、彼が単一の旋律を、第二の旋律が対置できないような形で書こうと試みたことからも明らかである。当時原則とされていたのは、諸声部の結合が一つのまとまりを形成し、内容をもれなく表現するのに必要な音をせすべて使い尽くして、それにもうひとつの声部を付加しうるというような欠陥がいっさい感じられないようにすることだった。バッハの時代までこの原則は二声、三声、四声の楽曲に対してのみ、しかもまだ常に不完全な形でしか適用されていなかった。バッハは二声、三声、四声の曲においてこの原則を満たしたばかりか、その原則を単声の楽曲にまで拡大しようと試みた。六曲のヴァイリン独奏曲とさらに六曲のチェロ独奏曲はこのような試みの結果であって、そこにはいっさいの伴奏がなく、第二の旋律を付加する余地もまったくない。旋律に独特な動きをあたえることによって、彼は転調に必要な音をすべてたった一つの声部のなかで結合したので、第二の声部は必要でもなく、可能でもないのである。

内容はすこし難しいかもしれませんが、言わんとするところはわかると思います。

バッハの無伴奏の作品を聴いて、伴奏が欲しいと思わない、あるいは何かもの足らないという気分に全くならないのは作曲技法の上でそれを目指していたからということがわかります。

ブラームスがバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番の最終楽章「プレスト」を対旋律を作曲(2つのバージョンがあります)してピアノのエチュードにしましたが、ブラームスの対旋律は見事なものですが、演奏の満足度は、無伴奏にはかないません。これは後にシェーベルクも述べておありますが、「旋律にあたかも最初から伴奏音が付随してるかのように作曲されている」からです。

特に無伴奏チェロ組曲は実質20世紀になってからカザルスが再発見したようものですが、1802年の段階(バッハ小伝の出版年)でフォルケルがその価値を評価しているのですが、古典派、ロマン派時代にいかに無伴奏作品が不遇であったがよくわかります。シューマンば無伴奏にピアノ伴奏を作曲、ブラームス、ブゾーニのよる編曲があったにしてもです。

2008年4月 4日 (金)

バッハ小伝〜フォルケル

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本の写真はサンスーシー宮殿でのフリードリッヒ大王のフルート演奏(19世紀中頃にメンツェルが描いた)

ちなみにサンスーシーとはフランス語で「憂いなき」この宮殿はポツダムにあり、ユネスコの世界遺産に登録されている。なぜフランス語か?当時の貴族の公用語がフランス語であったことと関係があるのかもしれません。

こんばんは。3月の中旬ころからしばらく記事はエントリーしておりませんでした。パソコンのハードディスクが壊れたこともあり、以前の私なら即日で復旧させるところですが、このごろじたばたするのはやめることにしました。最近のほとんどの方にとって自身のパソコンの占める割合はどのくらいなんでしょうか。

私は携帯はあまり好きではありませんので必要最小限しか使用しませんが、パソコンは文房具、辞書、音楽、ビデオ等使いまくりますので機械の寿命も極端に短いのは宿命かと思います。

さて、パソコン復旧の間にバッハ関係の本を4冊、グールド関係の本を2冊読んでおりました。今日はその中から、フォルケルの「バッハ小伝」をご紹介したいと思います。

その前に「小伝」の意味するところですが、訳注およびバッハ年表などを付録を別にすれば、フォルケルがバッハの伝記に相当する部分が全体128ページの中で16ページしか記していないのでこのような「訳」になったと思われます。

後で各章の表題を紹介しますが、全体としては「バッハ論・バッハ評伝」の体をなしております。ヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749〜1818)は1770年ゲッチンゲン大学のオルガニスト、1779年から同大学で音楽監督を務めました。現在では音楽研究家として有名ですが、ドイツで最初の「音楽通史」(16世紀までで中断)を書いたことで有名になりました。

若いときからバッハの音楽に傾倒し、1801年から1804年にかけてライプツィッヒのホフマイスター=キューネル社(ペータースの前身)から出版されたバッハのクラヴィア曲全集に協力したのです。この全集の付録として書かれ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどにバッハの音楽を紹介したウイーンのゴットフリート・フォン・スヴィーテン男爵に献呈されました。フォルケルはバッハの死の前年に生まれていますのでゼバスチャンのことは息子フリーデマンやカールフィリップ・エマヌエルから情報を得たのです。

前にも紹介したことのある有名なエピソード、兄のヨハン・クリストフの音楽帳を月明かりを頼りに半年がかりで写譜したこと、「音楽の捧げ物」作曲の経緯、ゴールドベルグ変奏曲のいきさつなど、たいていこの本が底本になっていました。

さてこの本の中でもっとも有名な部分ゴールドベルグ変奏曲についてのフォルケルの記述をそのまま引用します。(角倉一朗訳)

この変奏曲はザクセン選帝侯宮廷駐留の前ロシア大使、カイザーリンク伯爵のすすめによって生まれた。伯爵はしばしばライプツィッヒに滞在し、ゴルトベルクを連れてきてバッハから音楽の教授を受けさせた。伯爵は病気がちで、当時不眠症に悩まされていた。同家に居住していたゴルトベルクはそのようなおり控えの間で夜を過ごし、伯爵が眠れない間何かを弾いて聞かせねばならなかった。ある時伯爵はバッハに、穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィア曲を、お抱えのゴルトベルクに書いてほしいと申し出た。(中略)伯爵はその後もこの曲を「私の変奏曲」と呼ぶようになった。彼はそれを聴いて飽きることがなく、そして眠れぬ夜がやってくると永年の間、「ゴルトベルク君、私の変奏曲をひとつ弾いておくれ」といいつけるのであった。

なお、伯爵はルイ金貨が百枚つまった金杯をこの変奏曲の謝礼として贈ったとあります。

ちなみにこの時のゴルトベルクは14,5歳大変な演奏技術を持つ少年だと思うのですが、フォルケルは別の章で、ケーニヒスベルク出身のゴルトベルク・・非常に優秀なクラヴィア奏者だが、作曲に対する特別な素質はなかったと、厳しく論評しております。

■序言
■バッハの家系
■クラヴィア奏者としてのバッハ
■オルガニストとしてのバッハ
■バッハの和声
■バッハの旋律
■教師としてのバッハ
■人間としてのバッハ
■バッハの作品
■バッハによる改稿
■バッハの精神

となっています。各章は真の理解の意味で音楽の基本知識を要しますが、そんなことはかまわずに読み進みまた知識がついた時点で読み返せばいいと思います。各章、バッハの作品を演奏するあるいは鑑賞する上で短い記述ながら非常に示唆に富んだ内容になっています。

ひとつおもしろい例をあげましょう。
Regis Issu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta (王の主題その他が王の命令によりカノン風に展開される)

有名な音楽の捧げ物の三声のリチェルカーレの表題として書かれているのです。青字をつなげるとリチェルカーレになりますね。バッハはフリードリッヒ大王に最大の敬意を持って作曲したことがわかります。一種の知的な言葉遊びですよね。

最後にフォルケルは次のようにバッハ小伝を締めくくっています。

そしてこの人物−かつて存在し、また将来存在するであろう最大の音楽詩人にして最大の音楽雄弁家−はドイツ人であった。祖国よ、彼を誇れ。彼を誇りとし、かつまた彼にふさわしいものとなれ!

ドイツ人ならずとも感動を呼ぶ名言ですね。(1802年ライプツィッヒで出版)

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