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2008年4月30日 (水)

chiakiのピアノ発表会 2006年 第4回

2008年4月28日 (月)

chiakiのピアノ発表会 2006年 第3回

2008年4月26日 (土)

chiakiのピアノ発表会 2006年 第2回

2008年4月25日 (金)

chiakiのピアノ発表会 2006年

2008年4月24日 (木)

ピアニストの名言・迷言 第2回

C2ptezje
こんばんは。ピアニストの名言・迷言は第2回目です。今夜は夭折のピアニスト ディヌ・リパッティ(1917−1950)です。この夭折とはふつうの人が早死した場合には使わない感じだそうです。天才か、あるいは何か大きな業績を残した、あるいはその途中で命が若いうちに途絶えた場合に使うのだそうです。

今回は少し長いですが、ジュネーヴ音楽院教授時代に、生徒からのショパンのエチュード作品10−3(別れの曲)をどのように作っていったのかを尋ねられた時

「少なくとも6ヶ月は毎朝ゆっくりと。片手で音を注意深く聴きながら、腕や手や身体の動きをじっくりと研究しました。そうすると、自分の音楽上の考え方が鏡に映ったようにはっきりしてきます。そのとき初めて人に聴かせられるようになりました」

と笑いながら答えたそうです。

残されたリパッティの録音から想像しますと、彼は大変なテクニシャンであると同時に、練習の痕跡が微塵も感じられないような、何か新鮮さがあるのです。

ショパンのエチュードは技術的に難しい曲が多いのですが別れの曲は初心者とまではいいませんが、ピアノを数年習った方なら弾いている人も多いと思います。中間部の両手の重音は易しくはありませんが、唯一エチュードの形跡がある部分です。これが少し難しい部分です。

この曲を弾こうとする方なら譜読みは1週間もかからないでしょう。それをリパッティは半年もしかも片手でというのが私の驚きでした。譜読みの早さに自信がある人にはひとつの「警鐘」かもしれません。

この本では紹介されていませんが、リパッティがベートーヴェンの皇帝(ピアノ協奏曲第5番)とチャイコフスキーの1番(ピアノ協奏曲)を録音を所望されたとき、皇帝は5年、チィコフスキーは3年待って欲しいと答えたそうです。冒頭の生徒に対する答えから十分にありえる話だとあらためて思いました。

冒頭のリパッティの本は他の機会にもっと紹介したいと思います。

2008年4月23日 (水)

知るを楽しむ (私のこだわり人物伝)

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こんばんは。4月に「知るを楽しむ−私のこだわり人物伝」でコラムニスト天野祐吉が「カラヤン 時代のトリックスター」は4月に4回にわたって放映されましたが、皆さんの感想はいかがでしたでしょうか。

私にとっては今回のテーマは陳腐とまではいかなくても既知のことがほとんどで、天野祐吉の発言はどちらかというと鬱陶しいとはいわないまでも邪魔だった。挿入されている映像を観るほうがよほど楽しかった。見栄えがよくない上に語り口が人を引きつけるものではなく、さらに口上が長い。これは天野祐吉の責任ではなくて制作側の問題である。

カラヤンがVHSとベータ方式のビデオ規格をめぐってベータを推薦はしたものの積極的には関わってはいませんでした。カラヤンがソニーからCDの説明を受けたのが1979年、CDの規格が当初案=収録時間60分、直径11.5cmだったのを収録時間74分、直径12cmになったのはカラヤンのひとことが決め手になったのはご存じだと思います。すなわちベートーヴェンの第9交響曲が1枚に収まる規格にということでした。またカラヤンは地元アニフ(ザルツブルグから南に約10kmの小村)にソニーのCD工場を誘致して、地元の雇用創出に貢献したのです。

たぶんみなさんはお忘れになっていると思いますが、ベータでVHSに破れたソニーはその反省から世界的な企業(音楽産業も包含する)フィリップスとの2社でCD標準規格(レッドブック)を策定したのです。

カラヤンは1965年に自身と映画制作会社ユニテル社との折半でコスモテル社を設立、オペラ、交響曲の映画制作を積極的におこないましたが、オペラ映画は映画館で積極的に上映してくれるとこらがなく、あっても興行収入はほとんどありませんでした。またテレビ放映をあてこんだ交響曲の映像は数社のテレビ局に売れただけで、1971年にコスモテルは活動停止、作品の権利はユニテルが買い取ることでコスモテルは清算されたのです。時代を先取りしすぎていたのです。1965年から1971年にはまだVHSなどのホームビデオがまだなかったのです。デッキが発売されたのが、ベータは1975年、VHSは1976年でした。カラヤンは肉体的にも経済的にも投資した映像作品のすべての権利を失ったのでした。

その後、VHS、ベータ、LDそしてDVDとカラヤンの先見の明が花開いたことは周知の通りです。カラヤン帝国興亡史の中川友介は「カラヤンはクラシック音楽の民主化をもたらした」、天野祐吉は「カラヤンはクラシック音楽の大衆化(低俗化ではない)をもたらしたと、カラヤンの遺産に関して意見を提示しています。

ビジネスマンといわれたカラヤンを皮肉るわけではないのですが私は「カラヤンは音楽家の生活を将来にわたって保証する方法を編み出した」と思っています。

私はカラヤンの音楽は前にも述べたように好きではありませんが、スミー・ジョーをレッスンしている時、カラヤンの彼女にたいするアドバイスは素晴らしいものでした。言葉は忘れましたが、本人も気づいていない特性を称えながらの厳しい指摘はレッスンの鏡のようにも思えました。

小さいことかもしれませんが、キャスリン・バトルもアンネ・ゾフィー・ムターもカラヤンが見いださなければ現在の成功はありえたでしょうか。

5月はグレン・グールドがテーマです。語り手はグールドに関する生き字引 宮澤淳一です。彼はハンサムですが、語り口は私はまだ知りませんが楽しみです(ヒア アフターに少しだけ登場していましたが)。

グレン・グールドの放映は

5月6日(再放送 13日)
5月13日(再放送 20日)
5月20日(再放送 27日)
5月27日(再放送 6月3日)

蛇足ですが、テキスト(カラヤンとグールドの2シリーズ分1冊)がNHKから発売されています。

2008年4月21日 (月)

お知らせ

昨年から広告を載せておりましたが、止めました。メリットは抽選でプレゼントが当たるというものです。一度も当選がありませんし、関西でいうところの「鬱陶しい」ので止めました。

リンクですが、ピアニスト 長富 彩(ながとみ あや)さんのオフィシャルホームページをリンクしました。まだ学生さんですが、時折帰国してコンサートをおこなっております。CDが昨年(2007年)にライブ盤がリリースされました。

ピアニストの名言・迷言

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こんばんは。私は音楽ことにピアノが好きですが、それにまつわる伝記、評伝等も劣らず好きです。その中でもピアニストの名言(迷言?)には、ある種の深淵な真理とともに自虐・他虐も含めてある種のアイロニーが込められていると思うのです。今までに知り得た名言・迷言をご紹介致します。

第1回目はバックハウス(1884−1969)です。何故バックハウスなのか、理由は簡単です。私が初めて手にしたレコード(アナログ・ディスク)がバックハウスのベートーヴェン「熱情」でした。

インタビューア 「マエストロ 暇な時は何をなさっていますか」

バックハウス 「暇な時は、ピアノを弾いています」


レコードのライナーノートにあったエピソードです。当時16歳の私は何と人を小馬鹿にした発言だろうと思いました。恐らくインタビューアはピアノを弾いていない時の、息抜き、あるいは趣味について問いたかったに違いありません。私は冗談にしては少し毒がきつすぎると当時は思いました。

学生のころ(1973年頃?)バックハウス、カールー・ベーム指揮、ウイーン交響楽団の共演でベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調の映像がNHKで放映されました。バックハウスの残された数少ない映像でしたのでビデオ、ないしLD(レーザーディスク)の形で欲しいと思いましたが、買いそびれてしまい、長い間待っていました。それが昨年ベームのモーツァルト、シューベルトの交響曲と2枚組で発売されましたので、ようやく手に入れることが出来ました。

このDVDにはバックハウスの自宅での練習風景およびインタビューがあり、その中でバックハウスは「この曲(ピアノ協奏曲第4番)を10代の頃から毎日練習しているが、満足に弾けたことはほとんどない」と答えているのです。特に冒頭のピアノソロの部分のことを指しての発言でした。この曲を10代の頃から練習しているということも大きな驚きでしたが、たしかに齢80を超えたバックハウスではありましたが、この「毎日」という言葉がとても深く印象に残ったのでした。

このDVDの中のインタビューも終わる頃、冒頭の「暇な時はピアノを弾いています」がふと浮かんで来たのです。「そういうことだったのか」とようやくバックハウスの真意を理解したような気分になったのです。

賢明な皆様は、バックハウスの発言の真意をごく当たり前のように理解されると思います。バックハウスにとってピアノ、音楽が人生そのものだったような気がします。また現役のピアニストである限り、ずっと弾き続け(練習も含めて)なければならないということも言っているような気がするのです。

2008年4月19日 (土)

グレン・グールド 神秘の探訪 アルベルト・ゲレーロ その3

こんばんは。カラヤンで横道にそれました。グールドとゲレーロの関係を引き続き話題にしたいと思います。以下の人物の関係がおわかりでしょうか。

マルチン・クラウゼ、アロイス・レッケンドルフ
クラウディオ・アラウ、ウィルヘルム・バックハウス

まずこのブログをお読みを方はアラウとバックハウスが20世紀を代表するピアニストであるこはおわかりだと思います。クラウゼはベルリンのシュテルン音楽院の教授、レッケンドルフはライプチッヒ音楽院の教授です。

クラウゼは8歳でベルリンへ留学してきたアラウにとって師であり保護者でした。アラウは残された映像の中でも、彼の経歴の中での最重要人物と位置づけております。バックハウスもレッケンドルフのことをヴィルトゥオーゾではなかったが際だって感性豊かな音楽家で、自身の人生の中でもっとも優れた人格の持ち主のひとりとして賞賛しております。

翻って、グールドはゲレーロと出会った時からすでに天才ではありましたが、腕を低い位置に構える演奏スタイル、速いパッセージでの明確なアーティキュレーション、レパートリーなどゲレーロに負うところ大でした。私自身は異論はあるのは承知の上で、グールドは上記の大ピアニストと同列に並ぶ
大ピアニストだと思っています。

いくら私には師はいない、ゲレーロに師事したがそれは議論の場にすぎなかったといったところで、ゲレーロの他の弟子の証言で、グールドの言葉は否定されています。遅かれ早かれわかることを何故彼は言ったのでしょうか。変人グールドには一般の常識は通用しない?のでしょうか。そうではないと思います。何かの目的があったと思うのです。

1964年当時、コンサート活動なくしてレコードは絶対売れないと言われていました。にも拘わらずグールドはコンサートをドロップアウトして録音、テレビ、ラジオなどでその音楽活動を限定することにしたのです。グールドとて霞を食って生きていけません。また出来るだけ稼いで作曲に専念したいとも前々から言っておりました。グールドは確かに天才でしたが、この上にさらにある冠をつけたかったに違いありません。それは「孤高」です。いくら天才であってもその天才が話題になる時必ずその天才に影響を与えた人物も当然話題の中に含まれます。

あくまで私の勝手な推論にすぎませんが、孤高の天才ならばうちに引きこもり、録音に専念するのも一つの宣伝文句として成り立ちます。要するにグールドの録音活動は芸術作品の記録とともに商業的に必ず成功させなければならなかった思います。およそレコードを出す限りは人とちがったものを出さなければいけないとグールドが発言しているのは、まさにこのことだと思います。ベートーヴェンの熱情ソナタとかモーツァルトのレコードの演奏およびジャケット解説などの挑発的態度などはグールドのある種の売り込み宣伝と解釈すれば十分納得できます。

ゲレーロに話を戻します。彼は広いレパートリーを誇り、ハープシコード、クラヴィコード、フォルテピアノなどのレパートリーの擁護者でもありました。イギリス・チューダー王朝の音楽にも親しみ、ゲレーロは1949年に「音楽の史的選集」(ハーヴァード大学出版局)をグールドへのクリスマスプレゼントに贈ったのです。この選集にはオーランド・ギボンズの「ソールズベリー侯のパヴァーヌ」などが含まれていたのです。グールドのレパートリーの中で何故、ギボンズ、バード、スゥエーリンクなどが含まれるのが不思議な感じがした人は多いはずです。

最後にゲレーロのグールドに関する証言を掲載してゲレーロに関しては終わりにしたいと思います。バザーナの神秘の探訪にはゲレーロの項目は注目すべき記事はまだまだたくさんあります。興味のある方は是非ごらんになってください。65ページから85ぺージまでゲレーロに関する記述があります。

「グレンは人の助言は決して受け付けません。グレンを教える秘訣は、自分でなんでも見つけさせることだ。あるいはすくなくとも自分で見つけたと思わせることだ。」

この発言は後に自分(ゲレーロ)を無視するであろうグールドの態度を予想していたに違いありません。

蛇足

師を無視したピアニストはグールドだけに限りません。かの有名なエミール・ギレリスもそうでした。彼の場合無視した先生は何とあの「ゲンリッヒ・ネイガウス」です。これを知った時はさすがに驚きました。これは「ネイガウスのピアノ講義」(エレーナ・リヒテル編 音楽の友社)にニーナ・ドルリアク(リヒテル夫人)の証言にあります(191ページ)。ここには

「私はあなたに(ネイガウス)何ら恩義を被ってはいません。私がもっているもののすべてはレインバリド先生に負うものです」

これはネイガウスへの絶縁状の中の一節として紹介されています。

2008年4月18日 (金)

カラヤン帝国興亡史

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こんばんは。グールドの師アルベルト・ゲレーロの紹介を続けなければいけないのですが、少し趣を変えて本日は帝王カラヤンの話をひとつ紹介したいと思います。冒頭の写真はカラヤンが君臨した都市を今から紹介する本の作者が付録でつけたものです。

実はとても恥ずかしい話なのですが、私はカラヤンのCDは1枚しかありません。レコードも2枚組が1セットだけです。嫌いというほど積極的ではありませんが、もともとピアノ曲が好きだったので、管弦楽まで手が回らなかったこともあります。

さてこの本ですが、題名が「カラヤン帝国興亡史」で副題が「史上最高の指揮者の栄光と挫折」となっています。作者は中川友介 幻冬舎です。去年ですか「カラヤンとフルトヴェングラー」を出した人です。

カラヤンは歴史上にも画期的なポストに就きました。

1 ベルリンフィル終身首席指揮者
2 ザルツブルグ音楽祭芸術総監督
3 ウィーン国立歌劇場芸術監督

この3つを何と1956年に達成しているのです。カラヤンは1908年の生まれですからこのとき48歳です。何というカリスマ性でしょうか。

この本は会話らしきものはあるいは台詞などはほとんど出てきません。しかしこの本をカラヤンの履歴書と見ればこれは一大叙事詩の観があります。

私もこの前の「カラヤンとフルトヴェングラー」で知ったのですがベルリンフィルはカラヤン以前には終身の首席指揮者は置いておりません。もちろんベルリンフィル側が要望したものはありません。ザルツブルグ音楽祭の芸術総監督もカラヤンが初めて要求したポストです。

このへんの経緯が詳細に書かれていますので、音楽の要素は一切ありませんが、カラヤンの交渉力は見事なものです。ただカラヤンは我々が思うほど専制君主ではなく、若手の音楽家の為に財団を創設したりしています。

まったく内容を紹介しないのであればおもしろくありませんのでエピソーソをひとつ紹介致します。1976年4月イースター音楽祭の「ロ−エングリン」の公演でテノールのルネ・コロとの衝突があり、初日にコロは出演したものの、2日目は本番数時間前になってコロがキャンセルしたのです。

その原因は、リハーサル中に起きたらしく音楽解釈の違いでした。

カラヤンの言い分 「この作品を本当に理解して指揮できるのは世界に5人しかいない。だから、わたしのいうとおりにしろ」

コロの言い分 「そうかもしれないが、あなたはその5人のひとりではない」

コロの言い分はもうひとつの説がありまして
世界にはこの役を歌えるテノールは5人しかいない。しかし指揮できる指揮者は5千人いる」

要するにカラヤンの凋落の象徴としてこのエピソードがとりあげられたのでした。

このエピソードは当時有名になり、実はイースター音楽祭と同じメンバーでレコーディングが進んでいたのですが、1981年まで暗礁に乗り上げたままでようやくカラヤンとコロの和解、追加録音することで1982年に発売されました。


最近の写真